2024-09-19

楽に生きることの弁明

本日、無職81日目を記録した。

これからなにをして生きよう、これまで何やってきたっけ?と考えていたら、結論として「内省が生きづらさを解消して人生の幸福度を上げる」という考えに至ったので、自分に言い聞かせるためにも書き残しておく。

内省とは、自分の周囲の出来事についての自分の考えや言動を振り返ること

難しく考えなくてもいい。例えば、「あのカフェの雰囲気が好き」「あの人はちょっと苦手だな」と日々感じるような、身近なものも内省の結果だ。

あらゆる物事について、「どう思った、どう感じた、その前後の調子はどうか、身体への影響はどうか、違和感を感じないか」、これらを振り返ることがとても大事だ。

内省によって、自分の好きなもの、キライなものがわかってくる。そうすれば、キライなものをできるだけ排除し、好きなものが増えるように手配して暮らしていくという感じだ。それは早くにできればできるほど、人生の環境が整う。

内省をするのに重要なことは2つ。

1つ目に、好きの理由はたいして重要でないということ。

2つ目に、キライなものや不快なものをちゃんと避けているか、ということ。

1つ目の好きの理由についてだが、「○○だから好き」と理由が明白で意識できるものは、すでに好きなのである。それはそれでよい。理由がはっきりと言語化できなくとも、なんとなく「なんかいいかも」と思えることこそ、好きの源である。この好きを探り、広げることによって世界の彩りが増す。

好き以外にも、これやると調子いいぞとか、朝型と夜型の生活だったら、朝型の方がパフォーマンスいいぞ、とか心身のリズムを考察することも自己理解が深まる。

わたしで言えば、最近はカフェが好きだ。雰囲気がいい。ドラクエのフィギュアも、ゲームの世界やプレイしていた頃を思い出して好きだ。アロマの香りも落ち着く。パステル画も良いと思えるようになってきた。

どれも最近の話だ。「良さそうだな」と感じたことを繰り返してみると、やっぱり心が落ち着く。調子がいい。だから、それらは世界におけるわたしの味方である。好きの理由は、言語化したいとき、できるときにやればいい。

2つ目のキライなものや不快なものからちゃんと避けられているか、について。不快感やネガティブな違和感を感じたものは徹底的に考察する必要がある

たとえば、会社の飲み会に誘われたとする。飲みの場になると上司の1人の言動がハラスメント寸前で不快である。このとき、毎回嫌な思いをして飲み会に参加する必要があるだろうか?

現実的な策としてはこんな感じだ。
・適当に理由をつけて誘いを断る。
・同僚や他の上司に相談する。
・上司の言動が不快だと告げて断る。
・数回は様子をみたり、遠回しに不快感を見せたりして改善されなければ断る。
・そういうものだと諦めて参加し続ける。

どんな選択肢も問題ないとは思う。ただ大事なのは、自分の感覚に向き合うこと、そして思考停止をせずに事態を考察することだ。

この例でいえば、周囲のみんなは苦笑いしながらもその上司の不快な言動を受け流しているかもしれない。注意できる人もいるかもしれない。でもわたしが苦痛を味わうのであれば、参加すべきでない。

つまり、他者基準で自分が行動してもどうしようもない。わたしがどう思い、どう感じるかが問題なのだ。自分の人生の環境を整え、道を選ぶのは自分自身だからである。

逆に言えば、わたしにとっての普通なこと、平気なことでも、他人にとって辛いことはたくさんあるはずだ。

わたしの例でいえば、(興味のない)大きい音が苦手で、映画館は中学以来15年以上行かなかった。本編はそこまで気にならないが、上映開始前の10分ほどの爆音の広告が苦手だった。

でも、昨年どうしても『PERFECT DAYS』という映画が観たくて映画館に行った。そのときは防音用イヤーマフ(射撃とかでも使うやつ,PR)を装着し、広告をできるだけ観なくても済むように上映開始時刻より7~8分遅れて上映室に入った。まだ広告が続いていたので数分ほどはイヤーマフで音を遮断し、本編が始まってから外した。比較的問題なく映画に入ることができた。

たぶん、周囲の人はそんなことは平気なのだが、わたしにはそのままのボリュームで広告を観ることができない。でも『PERFECT DAYS』は映画館で観たい。だから考え抜いた結果がこの方法になった。

誰もわたしのそんな思いなんて知らない。だから、自分でわたしを守る。わたしの快・不快の感覚を研ぎ澄ます。次に、どうしたら好きな環境で生きて、イヤな問題を解決できるのか考える。特に、イヤなものや不快なものについては徹底的にやる。

その理由は一つ。楽しく、楽に生きたいからである。

キライを撲滅し、不快を取り除くコツとしては、「当たり前」を疑うことである。こう言うとまるで哲学のようだ。自己の感覚を研ぎ澄まして快・不快に向き合い、当たり前を疑って論理を追い、クリエイティブに「じゃあどうするか」とアイデアを練る。

長くなってしまったが、物は言いようである。これらはすべて、「楽に生きる」ことの弁明をしただけだ。楽に生きることには、いつだって全力でなければならない。

※イヤーマフは以下の記事で紹介したことがある。

END

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です