孤独と共に生きる
「ごめんなさい。おぼえてないです」
20年以上前の話だ。小学生のころによく通っていたチャットがあった。しばらくしてチャットがサイトごと無くなってしまって数年経ち、そのチャットで知り合った方のHPの掲示板に「お久しぶりです。あのチャットの○○です。」と書き込むと、そう返事をいただいた。
おぼえてないかもしれない、と構えてはいたものの、やはりショックだった。人は、他者は、私が思うほど私を覚えていない。私は相手のことを覚えているのに、相手は覚えていない。それじゃあ、片思いみたいじゃないか。記憶の片思いか。ならば私たちが過ごしたあの日々はどこに残っているのだろう。小学生から高校生ぐらいのメンバーが集まり、他愛のない会話を楽しんでいた。ゲーム攻略サイトのチャットだったが、話題はゲームに限らず雑談を楽しんでいた。あの日々は、私しか覚えていない。他の人たちは今、どこで何をしているだろう――
“記憶の片思い”は、エゴなのだろうか。いじめた者はすぐ忘れるが、いじめられた者は一生忘れられないという。記憶力が極端に優れている人は、良いことだけでなく嫌なこともすべて忘れられないという。さすれば彼らもまた、一方的に記憶をとどめる者たちである。そのようにして、記憶の片思いは世界に散在する。
“記憶の片思い”の内にある、「自分が覚えているのだからあなたも覚えてほしい」という気持ちは、確かに自分本位かもしれないが、この願望は自然と生まれてくるものでもある。私は、過ぎ去った日々を誰かと共有したかったのだ。
なぜか?
私(人間)が孤独だからだ。どれだけ他人と触れ合おうと、理性や身体は絶対的なものであり、誰しもが構造上の孤独を抱えている。ゆえに、他者と同じ経験をしたり、共感を求めたりするのだと思う。私とあなたが共に時を過ごし、物を考え、何かを感じる。そこにこそ、孤独の活路を見出すのである。ああ、私は独りであるが、独りではないと悟り、そして孤独を慈しむ瞬間が生まれる。
中学生の頃、それまでに通っていたサイトが無くなり、交流が取れなくなり始めた。私はよくインターネットの記憶に思いを馳せていた。みんなはどこにいってしまったの?でもこの世界の、日本のどこかには居て、暮らしているんだよね。これはどういうことだ?
小学生の私には、メールアドレスの交換すら思いもよらなかった。だって、チャットに行けば、いつだってみんなそこにいるから。でも、すべて無くなってしまった。永劫に続くものなんて、ありやしないのだ。そのことがわからないまま、インターネットという通信技術に触れ、享受していたつもりだった。だから、私は空中に投げ出されてしまった。何もわからず、ただ宙をさまよった。
「胸に穴が空く」という表現がある。近しい人物を亡くした時や、離縁など喪失感を表すために用いることが多い。私も飼っていた犬を失ったときは、本当に胸に穴が空いた感覚がした。その穴とは、私を構成するものの中で、犬が満たしていてくれた部分を失ったためにできたものだった。「さんぽ」と口にすれば笑顔で吠え、寝ているときに触れれば怒る。そんな素直さを教えてくれたのは、犬だった。
うたかたのように消えたインターネットの思い出や、犬の死によって空いた胸の穴は、時の流れとともに塞がっていった。穴があったところに目をやると、修復された皮膚のように色が変わっているようだ。よかった。跡が残っていて。
穴のあたりを撫でていると、吉野弘の『生命は』という詩が思い出された。
生命は
生命は
吉野弘『生命は』 吉野弘詩集,1999年,84ページ
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花もめしべとおしべが揃っているだけでは不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
人間は、絶対的に孤独である。
この揺るぎようのない事実に、絶望するのか。苦悩するのか。笑い飛ばすのか。その向き合い方にこそ、その人の生き方が、生命が滲み出ている。
心の中の、ある部屋のドアを開けると、気づかなかった大切なものがあるかもしれない。空っぽかもしれない。忘れたい記憶があるかもしれない。満たさなければならないかもしれない。でもあせらず、穏やかに心の奥をみつめて、すこやかにし、何気なく過ごしていると、私は風になり、いつかは、優雅に空を飛んでいるだろう。
参考文献ほか
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