急がなくては
無職169日目となった。
まだ仕事探しはしていない。が、失業保険が切れるまであと1カ月しかない。そろそろ退路が断たれ始め、いよいよ行動を開始せねばならん。そのことが、穏やかな日常を破壊しようとしている。保たれた均衡が崩れ、わたしの心も時々に闇に飲まれそうになってしまう。
しかし、今はまだ絶えねばならない。限界まで粘り、なにか良い道を探したい。
明後日には、ある刑事裁判の傍聴に行ってみようと思う。法律など詳しくないし、傍聴などしたこともないのだが、先日朝ふと目覚めたときに思いついた。無職期間中ならではの経験として、早起きして電車を乗り継いでいくことに決めた。
それから、年内に市議会の傍聴にも行ってみようと思う。こちらも政治や市政などについても詳しくないし、どちらかというと興味もない方である。批判されるためこれ以上書かないが、わたしは選挙などは20歳のときに1回記念で行って以来の10数年間、行っていない。
それでも見聞を広めるために、今しかできないことを探してやっていきたい。何かが、いつかどこかで役に立つと信じている。
少し前に、ある詩集に感動して家でポロポロ涙をこぼしながら読んだ。そのことについては、note『33歳で、はじめて詩集を読んだ』にも書いたのだが、わたしの心が大きく揺れ動いたあの出会いについて、もう一度ここに書きたいと思う。
詩をまともに読んだことが無かったわたしは、時間がある今のうちになにか詩を読んでみよう、と奮起して、図書館で幾人かの詩集を手に取った。家に帰り、茨木のり子という詩人の『歳月』という詩集を読み始めた。
一篇、二篇と読み進めて気づき、調べて分かったのは、『歳月』に収録されている39篇もの詩はすべて、茨木のり子が先立たれた夫に向けた思いを綴ったものだった、ということであった。
茨木のり子は48歳のとき、25年間同じ時を過ごした夫を肝臓ガンで亡くしている。その後、寡婦として30年過ごした後、彼女は2006年に最愛の夫のもとへ旅立った。そんな彼女が、編集者に言われても「それは私が死んでからどうぞご覧ください」と、生前は絶対に見せることがなかった夫のことを書いた詩の数々。それが茨木が亡くなった後、甥によって編纂・公開されたのが『歳月』であった。
急がなくては
急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと
急いでいます
茨木のり子『急がなくては』
わたしには詩などわからない、わかる人にしかわからない。そう思っていつも避けてきた。しかし、茨木のり子が言葉の中にさらけ出し、表現したその切なさや、言葉にならぬものを言葉にしようとする思いに心を打たれ、涙がこぼれた。
詩は、開かれているのだと思った。言葉の可能性の内に、表現が開かれている。そして読む者にとってもまた、解釈が開かれている。自由だ。自由がある。自由に向かって、世界が、言葉が解放されている。
『歳月』に収録された詩から、わたしはある詩人夫婦の何十年も前の生活を観た。かけがえのない思い出や、忘れられない出来事。ほんの些細な日常。そして、続いてわたしは観たのである。ある女性が一人で暮らし、机に向かいペンを執る姿を。その、小さな後姿を。
茨木のり子を知ることができて、詩を知ることができて、ほんとうによかった。可能性を教えてくれたこと、世界を広げてくれたことに感謝をしている。そしてこんな出会いも、思い立って無職になったおかげだと考えれば、これも意味があったと思える。
先日、谷川俊太郎が亡くなった。わたしがこのように詩を知る数週間まえの出来事だ。茨木のり子とあわせて借りた本の中に、谷川俊太郎の詩集もある。その中の一篇にこんな詩があった。
いなくならない
茨木のり子さんに
あなたがいなくなったと知った朝
二月の雨もよいの空の下
庭の梅の木が小さな花をつけていた
郵便がどさっと投げこまれ
子どものむずかる声が聞こえ
一日が始まった
あなたを失ったとは思っていません
茨木さん
悼むこともしたくない
半世紀を超えるつきあいを
いまさら絶つなんて無理ですよね
からだはいなくなったって
いなくならないあなたがいる
いつか私が死んだあとも
生と死の境界は国境線ほどにも
私とあなたをへだてない
そのことを証しするために
あなたの詩句を引用する誘惑から
逃れるのは難しいけれど
書いたものの中にだけ
あなたがいるわけではないと 茨木さん
そう言いたいんです今は
私から触れることはできないとしても
あなたは今も私に触れてくる
風に和む手で 雨に癒される眼差しで
星々に慈しまれる微笑みで
明日を夢見ることを許された
一日の終わりに
谷川俊太郎『いなくならない』
50年以上も親交があった茨木が亡くなったときに書かれた詩である。茨木のり子の伝記などに載っている写真は、谷川俊太郎によって撮影されたものも多い。
大切な人の死に際して、言葉にならない思いや感覚がある。喪失感や悲しみはもちろんだが、そのどこかには、安寧たる感覚もある。
失った者と共に生きた記憶は、あちらこちらに残り続けている。それは衣食住といったささやかな日常にも、稀有な体験にも残っていて、残された者が主体的に触れるだけでなく、亡くなった者の側からふいにやってくることもある。だから、いなくなった人も、いなくならないのである。
茨木のり子は亡くなった夫への想い、夫との思い出をひっそりと、たくさんの詩にして、あたためていた。
谷川俊太郎は、自分より先に亡くなった友人たちのために多くの詩を書いてきた。茨木もその一人である。
この言葉のつながりを、詩によって浮かび上がった目に見えないその存在の連鎖を、わたしは忘れたくない。エッセイと音楽しかなかったわたしの世界に、「詩もあるよ」と語らずして教えてくれた、遺された作品たちに敬意を示し、言葉の豊かさを忘れずに生きたいと思うのであった。
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